「指導すること」はつねにマルチチュードに従属し、そのつどの指示として配備されたり、 解任されなければならない。このコンテクストにおいて、指導者たちがなおも必要かつ可能であるとすれば、それは、彼らが生産的なマルチチュードのために働くからに過ぎない。これは指導の消去ではなく、それを構成する政治的関係の逆転にほかならない。つまり、水平的な運動と垂直的な指導を結んでいる極性の反転である。